きみの咆哮 森 秋刀

 モイロは今日も無口だった。もしもこの島がこれから文明を生み出す段階にある、いわゆる発展途上の地であったならば、「無口な」という形容詞は「モイラ」になっていたことだろう。(形容詞は語尾が必ず-aになるというルールがこの島には存在する。もちろん、全てはものの例えであって、このルールに則る必要が全くないのは承知済みだ)とにかく、そのくらいモイロはいつも無口で、そのことを気に掛ける者はもはや島には僕くらいしかいなかった。

「やぁ、モイロ。今日の朝食はなんだった」

地面を軽く蹴って、回転椅子を後ろに走らせる。モイロのデスクは僕のすぐ後ろで、つまり僕は毎日物言わぬ背中に向かって語りかけながら仕事をしているというわけだ。とはいえモイロと僕は幼なじみで、必要なことに対しては普通に答えを返してもらえるので不便はない。

「ハムエッグとマフィン。今朝は濃霧で駆り出されたせいでロクに食べれやしなかったけれどね。ひとまず、特にひどいところだけは薬を撒いておいたが、島中包まれてしまうのも時間の問題だ。というか、もう包まれているだろうな」

「それはご苦労だったね。すまない、僕も行ければよかったんだが」

「いや、その点は構わないんだ。君にはジャクリーヌとロンがいるんだし」

 この島の都市計画課は実質、僕とモイロの二人しかいない。ユミーチじいさんはもう歳でロクに動けやしないので、人数にはカウントしない。「都市計画」なんて大層な名前を冠してはいるが、実際のところは島の区画整備や交通整備、安全や健康にまつわる細々とした厄介ごとをとりあえず任されている便利屋だ。役場で一番面倒な役回りだから、僕らのような若い男が割り振られている。

 モイロは妻子ある僕を気遣って、早朝や深夜のトラブルは全て一人で請け負ってくれていた。ことあるごとに「おれは独り身だからね」と口にするのは、なにも嫌味なわけじゃない。幼なじみの僕にはよくわかっている。

「ともかく、今日は一段と霧がひどい。マシーンを動かそう。じいさんばあさんに、外に出ないよう声をかけにいかないと」

モイロは深いため息をついて立ち上がった。その背中には、現実のずっと深層にある根本的な仕組みに対する諦めが滲んでいた。もう夏も終わろうという季節に掻く、終わりも始まりもないじっとりとした汗のように。

「モイロ、声かけには僕が行こう。君は上にマシーンを動かしに行ってくれないか」

 それがどうしようもなく可哀想に見え、思わずそう声をかけた。マシーンというのは霧を晴らす光線を放つ灯台のようなもので、この島でそいつを動かす権限を持っているのは僕とモイロ、それからユミーチじいさんの三人だけである。つまりそれは、随分と特権的で専門的、すなわち危険な代物というわけだ。平屋だった役場の上に突然設置されたのが今から30年ほど前、この島にある建造物の中では最も新しい。

 一度光線を放てばその残滓が仕事をして、大体24時間は霧が発生しない仕組みである。とは言っても、霧は完全に晴れるわけではない。水を含みすぎた灰色の絵具のように薄く透明に、生活には支障のない程度に敷かれ続けている。もはや霧は、この島の宿命なのだ。

 モイロは白銀の上等そうな腕時計をちらと見遣って、

「わかった。じゃあ、13時ごろここに」

と言った。その声はわずかに喜色がかっていて、僕は声かけを申し出たことを少し誇らしく思った。

 モイロはこの文明の末端、いまだに「圏外」なんて文字が表示される日のあるこの島で、宇宙を志しているのだった。幼い頃から今日まで、ずっとだ。毎夜毎夜霧が立ち込めてろくに天体観測もできないこの島でそんな憧れを抱くのは、滑稽で痛々しく、またガラス細工のように美しくもあった。この島で現状最先端の科学であるマシーンに触れられることは、モイロにとって適度な気休めと喜びになるのだろう。ホワイトボードに「モイロ・ユリガス(モイロはこの島では珍しく、苗字のある家の息子だ。彼の曾祖母が島の外からやってきたちょっとばかり有名な女優だった、らしい。詳しいことは僕もよく知らない。ただ、この島で暮らす分には苗字など必要ない)」と右上がりの字で乱雑に記名しマシーンの鍵を掴んでいったその指先を見送って、僕はコートを羽織った。キャラメル色のトレンチコートはハイスクールの頃から使っている物で、モイロはいつも「物持ちが良すぎるのも考えものだ、君だけまだハイスクールの学生に見える」と言う。僕にしてみれば、まだあの頃のように顕微鏡をのぞいては小指の爪ほどの小さな字でみっちりとノートを取るモイロの方が、よっぽど学生に見えた。

 今や月は、昔ほど遠い存在ではなくなった。地球の青さをその目で確認した人類はもう、とうに百万人を超えた。ロケットの発射場はかつて空港や駅がそうであったように、何の心得もない利用客のために、あるいは熱心な少年少女のために、安全とエンターテインメントが保証された施設となった。

 しかしそんなのはごく一部の都会人、それも極めて裕福な都会人のためのものだ。科学はどこまで発展しようと、本当の意味で世界を平等にはしない。僕やモイロははるか上層で均された科学による平等のしたで、せっせと茶畑を育てる家庭の子供だった。この島の六割は茶畑だ。(あとの四割は僕らのような公務員か商店、それから隣島の地熱発電所まで働きに出ている者である)どの家も子供の三倍、老人を抱えている。僕らは都会の子供と同じように宇宙船乗組員に憧れていたが、都会の子供のように、それを尊大で誇らしく、叶わずとも意義のある志だとみなしてくれる大人には巡り会えなかった。

「いいかいフィガロ、あんたはどうあがいたって宇宙船になんか乗れやしない。だから冷静になって、この島でいい夫になることだけを考えなさい。この際畑は継がなくたって構わない、とにかく、Be coolよ」

これが母の口癖だった。僕は母にめっぽう弱く、母を大変に愛していたから「畑を継がなくてもいい」という言葉にどれほどの重みがあるかを理解できた。母は島と島の畑を愛し、僕は母を愛す。世界に対して何も成し得なくても構わないのなら、全てを知る必要を感じないのなら、それは極めて幸せに思えた。僕は言われた通り、Be cool、冷静にいい夫を目指し生きることにした。

 だが、モイロは違う。モイロは明日宇宙に行けると言われても構わないように今日も生きている。僕は密かにそれが羨ましく、愛おしいのだった。ロンの面倒を見るときのような心持でモイロの少年の時分からの夢を応援している、こころから。しかしまた同時に、永遠に訪れないはずのその日を待つ彼が、不幸に死んでゆかないかをきつく心配もした。この島で妻子を持たないことは、辺境の小さな島で宇宙を目指すのと同じくらい絶望的で、ひとから憐まれるに値することなのだ。

 役場の自動ドアをくぐると途端に冷たい風がコートの裾をバサバサとさらった。襟をぐいと握って薄汚れたホールのブーツから顔を上げると、僕の足は動かなくなってしまった。

 見渡す限り広がる茶畑が水面のような波紋をたててさざめいていた。この世のありとあらゆる宝石たちを煌めきの粒子さえ見えなくなるほどに小さくすりつぶして、それらを全て惜しげもなく流し込んだ大海原。見えなくなった煌めきでもって海を漠然とした美へ導く女神たちが見えた。不鮮明なその大海に、僕は見惚れた。全てを自然に委ねたい欲望から、呼吸すらもやめてしまいたかった。太古の昔からずっと変わらない潮の風を頬に感じる。産毛たちがサワサワと鳴いた。

 しばらくそうして立ち尽くしていた。大きな風が一度だけ吹いて役場の裏庭を塞ぐフェンスを揺らした。ガシャン、という音で我に帰ったとき初めて女神たちの羽根が、深く濃く立ち込める霧だと気がついた。

 僕の見立てだが、ここ28年で一番美しいと言っても過言じゃない。

こんなに美しいのに、あと数時間後には見納めになる。女神たちもさぞ口惜しかろう。光線に殺されてしまうことではない。死の間際、最も美しい瞬間を誰にも看取られぬことが、である。

「あ、フィガロくん!」

「やぁ!」

遠く波のむこう、東側から、大きくこちらに手を振る少女の姿がうっすらと見えた。僕も同じくらい大きな身振りで返事をする。顔を見なくたってユーシェンだとわかる。

「お仕事、やめてしまった?」

彼女の少し極端な考え方は母親譲りで、金たわしみたいなチリチリの癖っ毛は父親譲りだ。彼女の母は僕より少し歳下で、彼女の父は僕より随分歳上だ。

「やめてなんかないよ、今だってお仕事中さ!」

三歩歩み寄る。

「そうだユーシェン!」

一歩歩み寄る。まだまだ、ユーシェンはずっと遠くだ。遮るもののない声は空間にドウドウと広がって、まっすぐ彼女の元へは向かってくれない。息を大きく吸って、それを全部吐き出して言葉にする。

「今から、島中のおじいおばあに、13時ごろビームを撃つから外には出るなって、声をかけに行くんだ!」

「ユーシェンも、おじいおばあを見かけたら、そう伝えておいてくれないか!」

「フィガロくんが、撃つのー?」

「いや、今日はモイロだよ!」

僕は大きく首を振った。ユーシェンにはどうせ見えていないだろうけど。

「こんなに綺麗なのに、消してしまうの?」

「霧のない島だって、それはそれで、綺麗だろう?」

「もう飽き飽きよ!」

「まだ10年のくせによく言う!」

「アハハ!私、大人になったら、こんなところすぐに出ていってやるのよ!」

ユーシェンはずっと振り続けていた腕をようやく下ろし、振り返って歩き始めた。

「それじゃ、アディオス!おじいやおばあには、伝えておく!」

東に向かって彼女はそう叫んだ。遮るもののない声はドウドウと空間に広がって、背後の僕までかろうじて伝わった。深い霧に吸い込まれるように、ユーシェンはあっという間に視界から消えていった。

 僕はすっかり東をユーシェンに任せた気になって、北に向かって歩き始めた。南北に伸びる島の南端に役場、そしてマシーンは鎮座している。北に行けば行くほど、畑は広く家は小さい。

 アスファルトを踏みしめ、北へ北へと進む。太陽の光は霧の一粒一粒に丁寧に乱反射し、薄暗くべたついた空気になって島を包んでいる。僕は何の気もなしに、墜落したイカロスの神話を思い出していた。イカロスを太陽のそばまで誘った翼の、あっけなく彼を見放した翼の、蝋の色を想像した。

ここまで


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